My Hidden History

曽我公平の歴史
1967年 東京は阿佐ヶ谷の河北病院にて産声をあげる。

—大阪・高槻市時代—
生まれてまもなく大阪府高槻市の古曽部町に住み着く。
当時は高槻市も田舎であった。マリアインマクラダ幼稚園入園。
高槻市立磐手小学校入学。通学路は田圃の中の道。
登校は15分なのに下校には必ず1時間くらいかかった。
蛙、亀、ザリガニ、木の枝になるグミの実、無花果、冬の田圃のレンゲ畑、天神様のお祭り、巨大な竹薮…….。
今も健在だろうか。

—東京・世田谷時代—
父の仕事の都合で東京世田谷の中町に引っ越した。
小学3年生夏~ 世田谷区立中町小学校へ転校。
この頃、将来自分は放送技師(そんな職種があるのだろうか)になると思っていた。なんだか電気関係のもんをいじくり回すのが好きだった。
家のブレーカーも何度か飛ばした。

—東京・荻窪時代—
小学校を卒業すると同時に杉並区の天沼に引っ越した。
区立天沼中学校(あまちゅう)入学。
当時最も面白かったのは七宝焼。
でも当時は将来ガラスに関わるとは思ってもみなかった。
世間では校内暴力真っ盛りの頃だったが、なぜか天中は平和であった。(本当に珍しかったらしい。)
理科好きはこのころからで、
区の施設でやらせてもらったネズミの解剖が印象に残っている。
竹内均氏の講演会を聴く機会があり、地球物理学者になろうと思った。

—東京・吉祥寺時代—
都立西高等学校に入学した。その年の夏に吉祥寺に引っ越した。
雨の日も風邪の日も自転車通学。西高はリベラルな雰囲気が好きだった。
吹奏楽部に入った。西高時代の99%は部活だった気がする。従って、3年になって「家から近い国立なら東大かなあ」と思い、担任に進路指導の時に話したら、成績を見ながら「冗談じゃないよ」と言われてしまった。
テストで0点を取っても気にならなくなった。順調に浪人した。

—駿台時代—
駿台予備校に入学した。唯一通った私立学校。
優れた教師に恵まれた。
受験勉強という意識はあまりなかった。
本当に学び考えることが楽しいと思ったのはこのときが初めてだったかも知れない。
この頃の自分はちょっと哲学的だった。

—駒場時代—
大学での有意義な学問的研鑽の夢は脆くも約3カ月で崩れ去った。
講義は恐ろしくつまらなかった。
唯一楽しかったのは、木村尚三郎先生の西洋史の講義とゼミであった。
バンドのサークル「音感」に入った。
(余談だが、このサークルは昔歌声サークルで、有名な「森の熊さん」の日本語訳の著作権を持っている変なサークルである。)
毎日、大学には行っていた。しかし殆どは新学生会館にいた。
典型的な遊んでばかりいる日本の大学生だったかも知れない。中途半端に遊ぶのはいやだった。徹底的に遊んだ。しかし、なぜか本郷には順調に進学した。
一緒にあそんで黒マジだった友人に裏切り者と呼ばれた。
かくて中学時代のもくろみに反し、地球物理ではなく金属工学を学ぶことになった。
底点だった。あぶなかった。

—本郷時代—
本郷に進学して、講義ははるかにわかりやすくなって、多少興味がもてるようになったが、ゴールデンウィークに続けて五月祭→梅雨の流れに勝てず、友人に「おまえは五月病だ」といわれた。
当時、大学のUNIXを使った電子メールやチャットがはやり始め、自宅から大学にモデムでつないで、友人にレポートの課題をきいたり、プログラムを転送してもらったりしていた。研究室に配属されてからは、自分のペースで必要を感じたことについて勉強できるようになり、それまでの3年間よりもはるかに多くのことを勉強した。
しかし、教養学部時代に築かれているべきベースの不足は今でも感じている。
(だからといって、今タイムマシンで大学1年生に戻っても、とても勉強するとは思えないが)
学部と修士は金属工学を専攻したが、途中で研究室自体の所属が材料学に移ったので博士の専攻は材料学。卒論から助手を4年半勤める間、現東京大学工学部マテリアル工学科ガラス材料学研究室でお世話になった。研究の相手はガラス。従って、金属工学の学士号と修士号を持ちながら、金属のことは良くわからない。その後、諸般の事情により、東京大学大学院新領域創成科学研究科物質系専攻マテリアル・機能設計学講座というやたらに名前の長い研究室に所属が変更になった。名刺のレイアウトに困った。
実際、木村薫先生のこの研究室を我々は単に「木村研」とか「ぶっせい(物性)」とか呼んでいる。

—ニュージャージーの一年間—
「木村研」に移って間もなく、米国ニュージャージー州立ラトガース大学へ留学する機会に恵まれた。
着任後すぐに留学を許していただいた木村先生に感謝。
留学するにあたって「ラトガース大学ってどこにあんの?」と聞かれ、「ニュージャージー」と答えると、さらに「ニュージャージーってどこにあんの?」という質問が返ってきた。
正解はニューヨークのとなりです。なんでもこの大学は、アメリカの州立大学で唯一、州の名前が付いていない大学で、なぜなら、アメリカ合衆国成立前から大学があったから、というのが理由だとか。ちなみに大学の創始は1766年。
渡米後間もなく、ハリケーン「フロイト」による大洪水に見舞われながらも、楽しくアメリカ生活をすごした。

—再び本郷へ—
一年間の留学を終え、再び木村先生の研究室でお世話になることになった。
カルチャーショックと言うのは帰国の際にも訪れるもので、
いったん外国に暮し、日本を再認識した後に帰国し、軽いカルチャーショックを感じた。
前よりも日本が少し良く分かったような気がする。
「正20面体クラスター固体」という新たな研究テーマに着手。

—柏キャンパス—
研究室とともに柏キャンパスへ移転した。
住所は「柏市柏の葉」。「葉」というのが味噌で柏駅からバスで20~30かかる。
常磐道柏インターからは数分の便利さ。いずれにしても新たなオフィスで静かな環境に恵まれる。

—野田キャンパス—
研究室を持つことになった。
はじめてみると結構大変、でも大変な分だけとても楽しい。
楽しみの一つは運河に弁当を持っていって学生とのランチタイム。

Written on Spring, 2004.